<<郷土資料>
1.新宿と伝説
◇本区には、130を超える伝説・昔話が残されています。今回は、その中から3つお話を紹介します。機会がありましたら、児童・生徒たちにも話して頂けると幸いです。
(原典「新宿と伝説」新宿区教育委員会刊)
①カッパのでる坂-合羽坂のいわれ(市谷本村町、片町)
②太田道灌と紅皿
③内藤家の駿馬
(原典「新宿と伝説」新宿区教育委員会刊)
①カッパのでる坂-合羽坂のいわれ(市谷本村町、片町)
②太田道灌と紅皿
③内藤家の駿馬
2.算聖 関 孝和(せき たかかず)
牛込柳町交差点から外苑東通りを北(早稲田方面)に向かって4、5分歩きますと、道路の右手に「関孝和の墓」と記された大きな石柱が立っています。ここが「浄輪寺」です。この寺には、関孝和の「墓」があります。孝和の墓石は先がとがった舟形で、いかにも鋭い「天才の墓」らしいたたずまいです。
孝和は、江戸時代に生まれた日本の数学者です。日本の数学のことを和算といいますが、それまでの和算の流れを全く変えてしまった天才だといわれています。彼は6歳の頃、大人が計算しているのを見て、その間違いを指摘し「この子は神童だ」といわれました。
孝和の生まれたのは武士の家でしたから、何人かの家来がおりました。孝和がまだ10歳のとき、家来のひとりがおもしろそうな本を読んでいるのを見かけました。・・・
孝和は、江戸時代に生まれた日本の数学者です。日本の数学のことを和算といいますが、それまでの和算の流れを全く変えてしまった天才だといわれています。彼は6歳の頃、大人が計算しているのを見て、その間違いを指摘し「この子は神童だ」といわれました。
孝和の生まれたのは武士の家でしたから、何人かの家来がおりました。孝和がまだ10歳のとき、家来のひとりがおもしろそうな本を読んでいるのを見かけました。・・・
3.漱石のエピソード
夏目漱石は、数々の名作を残し、日本人が最も愛する作家の一人です。英文学者だった漱石の文章は美しく、だれもが親しみ、若い人びとに愛されています。漱石は、倫理感の強い芸術家でした。常に自己批判をしながら、人間の生きる道を考え続けました。
1867年、夏目家に8番めの子が生まれました。この赤ん坊が、漱石、夏目金之助でした。
夏目家の兄、大一は英語が得意でした。金之助は、漢文が大好きでした。大一は金之助に英語の勉強をすすめ、毎日時間を決めて教えてくれました。兄は、「これからは間違いなく英語の時代になる。西洋文明は、英語が分からなければ正しく理解することはできない。第一、大学に入るなら、英語は欠かせない。」と言いました。
1867年、夏目家に8番めの子が生まれました。この赤ん坊が、漱石、夏目金之助でした。
夏目家の兄、大一は英語が得意でした。金之助は、漢文が大好きでした。大一は金之助に英語の勉強をすすめ、毎日時間を決めて教えてくれました。兄は、「これからは間違いなく英語の時代になる。西洋文明は、英語が分からなければ正しく理解することはできない。第一、大学に入るなら、英語は欠かせない。」と言いました。
4.小泉八雲
「怪談」(耳なし芳一など)で有名な小泉八雲=ラフカディオ・ハーンは、1850年ギリシャのレフカダ島で生まれました。父はアイルランド人、母はギリシャ人でした。4歳頃、父の故郷アイルランドのダブリンに移りました。6歳の時に父と母が離婚したため、ハーンは近くに住む大叔母に引き取られました。しかし、幼いハーンは、親からみすてられたショックや不安から、毎夜、ゴーストに苦しめられる夢を見ていたそうです。そんなハーンの心の支えは、大叔母の家で世話になっていたジェーンという女の人でした。彼女は6歳の八雲にやさしく接し、いつも神さまの恵みについて語ってくれました。
ある日の夕暮れ時、ハーンは、・・・
ある日の夕暮れ時、ハーンは、・・・
5.おちあいほたる
新宿区の西北部に落合という所があります。この落合という名前は、妙正寺と神田川が落ち合う(合流する)所から名付けられました。江戸時代の名所図絵を見ると、この落合の田園をたくさんのほたるが飛び交い、それをおとなや子どもたちが追いかけたり、虫かごを見て楽しんだりしている風景がえがかれています。
下落合は、江戸時代からほたるがりの名所として知られていました。たくさんのほたるが飛び交うことができたのは、・・・
下落合は、江戸時代からほたるがりの名所として知られていました。たくさんのほたるが飛び交うことができたのは、・・・
6.新しい日本の音楽 宮城 道雄
日本の音楽を語るとき、忘れることができないひりの天才ます。その人は、宮城 道雄です。
明治27(1894)年4月7日、宮城道雄は神戸で生まれました。生まれて200日たったころ、目の病気にかかり、8歳を過ぎると目が全く見えなくなってしまいました。失明の宣告を受けた彼は、人のすすめもあって、琴を習うことにしました。琴は、昔から目の見えない男の人がなる主な仕事の1つでした。
明治27(1894)年4月7日、宮城道雄は神戸で生まれました。生まれて200日たったころ、目の病気にかかり、8歳を過ぎると目が全く見えなくなってしまいました。失明の宣告を受けた彼は、人のすすめもあって、琴を習うことにしました。琴は、昔から目の見えない男の人がなる主な仕事の1つでした。
7.進取の精神 大隈重信
大隈重信は、早稲田大学(旧・東京専門学校)の創立者です。1838年3月11日、佐賀県で武士の子どもとして生まれました。
重信は7歳で藩の学校 弘道館に入学し、大変な勉強家でした。彼は、何でも新しいことに興味をもち、勉強も当時の最先端のことに挑戦していました。このチャレンジ精神が、大人になってさまざまな分野で活躍する基礎になっていきました。彼は、佐賀の特色『葉隠』による儒教教育を受けました。ところが勉強をするにつれて、「藩校で教えていることは古い」と感じました。「いかに世界が広くても、佐賀藩より貴重なものはほかにないように教えている」と批判的に解釈しました。
彼は17歳のとき、・・・
重信は7歳で藩の学校 弘道館に入学し、大変な勉強家でした。彼は、何でも新しいことに興味をもち、勉強も当時の最先端のことに挑戦していました。このチャレンジ精神が、大人になってさまざまな分野で活躍する基礎になっていきました。彼は、佐賀の特色『葉隠』による儒教教育を受けました。ところが勉強をするにつれて、「藩校で教えていることは古い」と感じました。「いかに世界が広くても、佐賀藩より貴重なものはほかにないように教えている」と批判的に解釈しました。
彼は17歳のとき、・・・
8.洋画家 佐伯 祐三
佐伯祐三(さえきゆうぞう)は、近代日本を代表する洋画家の一人です。彼は1898(明治31)年に大阪で生まれました。高校卒業後、1917(大正6)年東京の小石川にあった川端画学校に入りました。
大正7年、東京美術学校(東京藝術大学)西洋画科に入学し、絵の勉強をしました。美術学校では、卒業のときに自画像を描いて学校に寄付する習わしでした。そのとき祐三の描いた自画像は、鋭い眼が印象的で、作風は印象派の穏やかなものでした。
彼は、下落合の静かな木立の中に・・・
大正7年、東京美術学校(東京藝術大学)西洋画科に入学し、絵の勉強をしました。美術学校では、卒業のときに自画像を描いて学校に寄付する習わしでした。そのとき祐三の描いた自画像は、鋭い眼が印象的で、作風は印象派の穏やかなものでした。
彼は、下落合の静かな木立の中に・・・
9.林 芙美子
花のいのちはみじかくて 苦しきことのみ多かりき
この短詩や小説「放浪記」などの作品で知られる作家 林芙美子は、明治36(1903)年、北九州市門司区小森江(現在名)に生まれました。
芙美子は、11歳まで行商する両親に連れられたり、親戚にあずけられたりして、下関、長崎、佐世保、鹿児島などを転々と移り住みました。
大正5年(13歳)のとき尾道市に落ち着き、翌年、市立尾道小学校を2年遅れで卒業しました。9年(15歳)のとき、文才を認めた先生の勧めで尾道市立高等女学校へ進学しました。彼女はたいへんな読書家でした。家に帰っても両親がいないので、毎日、遅くまで図書室で本を読みふけりました。
芙美子は、11歳まで行商する両親に連れられたり、親戚にあずけられたりして、下関、長崎、佐世保、鹿児島などを転々と移り住みました。
大正5年(13歳)のとき尾道市に落ち着き、翌年、市立尾道小学校を2年遅れで卒業しました。9年(15歳)のとき、文才を認めた先生の勧めで尾道市立高等女学校へ進学しました。彼女はたいへんな読書家でした。家に帰っても両親がいないので、毎日、遅くまで図書室で本を読みふけりました。
10.まんがの神様 手塚治虫
「鉄腕アトム」「ジャングル大帝」などで世界的に有名な手塚治虫は、1928(昭和3)年11月3日に大阪府豊中市で生まれ、5五歳から24歳まで兵庫県宝塚市で過ごしました。
治虫は小学生の頃、背が低く眼鏡をかけ運動も苦手でした。髪はくせ毛だったので「ガチャボイ(髪の毛がガジャガジャの頭)」というあだ名でからかわれました。しかし、仲の良い友達の影響で、昆虫、科学、天文学などにも興味を持つようになりました。
治虫は、家の広い庭や周囲の豊かな自然環境の中で、昆虫採集に夢中になりました。治虫という筆名も、甲虫(こうちゅう)の「オサムシ」にちなんで小学4年生のときに名付けたそうです。
治虫は小学生の頃、背が低く眼鏡をかけ運動も苦手でした。髪はくせ毛だったので「ガチャボイ(髪の毛がガジャガジャの頭)」というあだ名でからかわれました。しかし、仲の良い友達の影響で、昆虫、科学、天文学などにも興味を持つようになりました。
治虫は、家の広い庭や周囲の豊かな自然環境の中で、昆虫採集に夢中になりました。治虫という筆名も、甲虫(こうちゅう)の「オサムシ」にちなんで小学4年生のときに名付けたそうです。
11.淀橋のいわれ
むかしむかし、紀伊国(和歌山県)から鈴木九郎(九十郎)という浪人が流浪のすえ、中野のあたりに来て住みつきました。その当時、今の新宿区西部から中野区にかけての地を「中野」と呼んでいました。九郎の先祖は熊野神社に奉仕し、源氏の恩顧(おんこ)を受けていました。そのため、義経が奥州平泉にのがれたとき、そのあとを追って義経の軍に加わりました。ところが義経が敗れたので、奥州各地を渡り歩き、九郎の代に中野へ流れ着いたのでした。
九郎は、ふとしたことが縁で蓄財できたので、郷里の熊野権現をやしきの中に観請(かんじょう)(神仏の分身をその地に移して祭ること)して信心しました。そのおかげでしょうか、数年後には家運が栄えて金銀が蔵に満ちあふれ、広大な田畑も手にいれました。近くの者は彼を「中野長者」と呼ぶようになりました。
九郎は、ふとしたことが縁で蓄財できたので、郷里の熊野権現をやしきの中に観請(かんじょう)(神仏の分身をその地に移して祭ること)して信心しました。そのおかげでしょうか、数年後には家運が栄えて金銀が蔵に満ちあふれ、広大な田畑も手にいれました。近くの者は彼を「中野長者」と呼ぶようになりました。
皆様へ目白言語研究室からのメッセージです。
目白言語では「作文力の前提」として、「語彙の獲得と読書」を重視しています。心(感情)と知性を育て立派な大人になるために、読書をたくさんしてほしいと願っています。
目白言語研究室
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(Mejiro Language Laboratory)
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